近頃、ふと思うこと。
伊賀有機農産という集団は、出荷団体でも、イベント団体でもなく、「運動」体だと思っています。
「運動」ということは、自分たちだけでなく、周りのひとや社会にもこういう風になったらいいのに、と呼びかけることです。
まあ大抵のひとは他人にああせいこうせいと言われるのは面白くないので、運動とか言われると、ちょっと引いちゃいますよね?
僕たちは僕たちの主張を唱えながら、自分たちの暮らしの中で実践することを心掛けています。
そして中には、口先ばかりでまだまだ全然できていないこともあるし、逆に自分たちでできるんだからみんなもできるかもよ!?と語りかけられることもあります。
そうやってそれぞれのペースで、それでも着実に前を向いて進んでいく。
それが僕等の「運動」だと思っています。
でも、社会運動と政治運動は紙一重なところがあるので。
たとえば記憶に新しいところでは、震災後もちあがった「震災ガレキの伊賀での受け入れ」については、作り手と受け手入り乱れて様々な議論が飛び交いました。
受け入れの是非に始まり、阻止派の中でもどのように阻止していくのか、、、なかなか意見はまとまりません。
遠くの目標は共有しているはずなのに、手段・戦略のところで別れてしまう。
そして、それが何故だか近親憎悪のようになり、ホントの敵以上に、近いはずなのにちょっと違うだけの味方をより憎んでバラバラになってしまう。
戦後の学生運動の時代は、日本赤軍に象徴される「内ゲバ」(同じグループの内側で分裂、血みどろの殺し合いに発展したこと)という近親憎悪により、運動の機運が萎んでいったと思いますが、宗教にしても政党にしても、同じ「ような」志しを持った人たちが、どんどん分派して自ら力を失っていってしまう。
多くをつかもうとすれば主張はボンヤリし、鋭く突っ込もうとすれば少数になってしまう。
運動とは、そういう側面もあります。
目標があって、そこに行く為にいくつもの道がある。
そのとき、現状を見て、理想までに越えねばならない壁を見上げ、一番効率のよさそうなやり方を選ぶのが普通ですよね。
その現状解釈が違うから、意見が割れるんだと思うのです。
ここまでは変わらない=前提とすべきことと、
ここからは変えられるんじゃないか=取り組むべきポイント、の見極め方で、意見が割れる。
もしかしたらこの解釈の仕方は、
性善説寄りなのか、性悪説寄りなのか、で別れるんじゃないか、と最近よく思うんです。
もっと言えば、
ひとは変わるとどこまで期待しているか、に寄るのかなあ、と。

たとえば、すごく単純化して言いますが、
国はどこまで自衛する力を持つべきか、で論争がありますね?
武器を持たなければ相手も撃ってこない、と性善説的に信じるひとと、いやあいつらは何してくるか分からない、と性悪説的に唱えるひとと。
経済発展にしても、ひたすら成長を求めなくてもやっていけると思うひとと、出し抜かれることを恐れて立ち止まることを拒むひとと。
原発も、エネルギーを使わない暮らしを求めればいいじゃないかというひとから、エネルギーを使うのは仕方ないから温暖化を防ぐには原発やむなしというひと、エネルギーを大量に発生させられる原発を手放したら世界に置いていかれると思うひとまで。
いずれも、周りとの関係のなかでの選択だから、「周りがどう動くか」の予測で意見が割れる。
もっと言えば、どこまで他人に「してやられる」ことを受け入れられるか、によると思うのです。
そして、
自分の動きでどこまで他人を変えることが可能と思うか、によるのだと。
もちろん実際にはあらゆる可能性を想定し、リスクを分析し、統計的に効果を検証し、いろんな手段を持ちながら一つ一つ選択していくわけですが。
…。
どの戦略の選択が正しいか正しくないかは、結果論かなと思うのです。
未来予測は、つまりひとに対する期待値はひとそれぞれだから。
これが正しい、ということはないのだと。
だから、コツコツ、地道に、現場で、実践を積み重ねる。
それが僕らのできる「運動」かなあ、と思っています。
くどいわりには、前回のブログとあんまり内容変わらないですね。
ぐぅ